なぜマレーシアは「世界一の旧正月ソング大国」なのか?

公開日 2025年12月21日 最終更新日 2025年12月21日

中国でも、台湾でも、香港でもない。世界で最も熱狂的に、かつ大量に「旧正月ソング(賀歳歌)」を生産し続けている国が、マレーシアだ。

毎年リリースされる新曲はなんと300曲以上!

この国において、旧正月の音楽は単なる季節のBGMではない。それは巨大な商業エコシステムであり、華人社会のアイデンティティを映し出す鏡であり、数ヶ月で億単位のお金が動くビジネスでもある。

なぜ、熱帯のマレーシアでこれほどまでに「春」を祝う歌が独自の進化を遂げたのか?

今回は、その意外な歴史、成立させるビジネスモデル、そしてAIやYouTuberが台頭する現在までを徹底解説する。

世界でも稀有な「賀歳歌」のエコシステム

1月に入ると、ショッピングモール、ラジオ、SNS、テレビから一斉に賑やかな音楽が流れ始める。

中華圏の他地域では、過去の定番曲を流すのが一般的ですが、マレーシアでは「毎年、新曲を作る」「その年の干支をテーマにする」ことが義務のようになっている。これは、お年玉(紅包)や新しい服を用意するのと同等の「正月の準備(年貨)」として定着しているためだ。

歴史:上海の夜明けから南洋の「ガラパゴス進化」へ

マレーシアの賀歳歌文化は、移民の歴史とともに変容してきた。その歩みは大きく4つのフェーズに分けられる。

① 1940年代〜60年代:上海への憧憬とノスタルジー

現在「伝統的な新年ソング」と思われている曲の多くは、実は「正月の歌ではなかった」という事実はあまり知られていない。

  • 『恭喜恭喜 (Gong Xi Gong Xi)』: 本来は1945年の日中戦争勝利を祝う歌。
  • 『春風吻上我的臉』: 映画の挿入歌や季節の歌。

当時のレコード産業の中心地・上海から「南洋(東南アジア)」にもたらされたこれらの歌は、常夏の国に住む華僑たちに、故郷の「春」や「四季」への強烈なノスタルジーを喚起させた。

② 1970年代〜80年代:ローカライゼーションの萌芽

マレーシアの地場レコード会社が、この市場の価値に気づき始める。当初はカバーが中心でしたが、カセットテープの普及とともに「地元歌手が歌う正月ソング」が家庭の必需品として定着した。

③ 1990年代〜2000年代:映像化とアイドル黄金期

VCD(ビデオCD)の登場が革命を起こす。「聴く」ものから「観る」ものへの変化だ。

「四千金(Four Golden Princesses)」や「M-Girls」といったアイドルグループが登場。マレーシアや中国の観光地で撮影されたMVは、娯楽の少なかった時代の重要なエンターテインメントとなった。

④ 2008年〜現在:メディアコングロマリットによる「制度化」

最大の転換点は2008年、衛星放送局Astroの参入だ。

  • 「干支」テーマの導入: 毎年、その年の干支をモチーフにした曲を作る。
  • 大合唱スタイル: 局のアナウンサーやタレントを数十人単位で動員する。この手法が大ヒットし、以降、テレビ局やラジオ局が覇権を争う現在のスタイルが確立された。

歌詞に込められたローカルな共感

マレーシアの賀歳歌がこれほど愛される最大の理由は、中国の歌が描く「雪景色」や「国家の繁栄」といった抽象的なテーマではなく、マレーシア人の「汗と渋滞と食卓」という生活実態を歌っている点にある。

「南北大道」の大渋滞こそが、帰省のサウンドトラック

マレーシア華人にとって、旧正月の帰省は戦いだ。 首都クアラルンプールから地方(ペナンやジョホールなど)へ向かう「南北大道」は、この時期、巨大な駐車場と化す。普段は4時間の道のりが10時間以上かかることもザラだ。

YouTuberの3PやSteady Gangなどの楽曲では、この「渋滞のイライラ」すらも、車内で大音量の音楽を聴いて乗り越えようというポジティブなエネルギーに変換されている。渋滞の中で家族と過ごす時間も含めて、マレーシア人の「春節」なのだ。

「32度の正月」と「ロジャック(Rojak)」な言語感覚

マレーシアには四季がない。したがって、歌詞に登場する「春風」は比喩であり、映像の中の彼らは、伝統衣装を着ていても汗ばんで見えたり、あるいは現代的なTシャツと短パン姿で踊ったりする。この「常夏の祝祭感」こそが、彼らのアイデンティティだ。

また、歌詞に使われる言語も極めてマレーシア的。 標準的な中国語の中に、突然広東語のスラング、福建語の感嘆詞(Huat ah! / 発財)、そしてマレー語や英語が混ざり合う。 この混ぜこぜの文化「Rojak 」スタイルは、中国の視聴者を置いてけぼりにする一方で、地元民には「これは俺たちの歌だ」という強烈な帰属意識を植え付ける。

「撈生(イーサン)」:空高く箸を上げる儀式

MVのクライマックスで必ずと言っていいほど登場するのが、マレーシア・シンガポール特有の正月料理「撈生(Yee Sang)」。 皿に盛られた魚や野菜を、全員で立ち上がり、箸で高く持ち上げながら「Loh!(撈)」「Huat!(発)」と叫び散らかすシーン。

これは単なる食事の風景ではなく、「一年の運気をかき混ぜる」というアクション映画のような高揚感がある。この視覚的な「お約束」がMVに入っているだけで、視聴者は「正月が来た」と実感する。

市場構造:なぜ「無料」で豪華なMVが作れるのか?

年間300曲以上もの新曲が作られる背景には、高度に発達した商業エコシステムが存在する。

ビジネスモデルの核心:「スポンサーシップ」と「洗脳」

高品質なMVの制作費は1曲あたり数百万円にのぼりるが、ストリーミング再生数だけで回収するのは不可能だ。そこで機能するのが、強力なスポンサーシップ。

  1. FMCG(日用消費財)と銀行の資金力:ドラッグストア(Watsonsなど)や健康食品メーカーが制作費を負担。彼らにとって賀歳歌は、旧正月商戦へ消費者を誘導する「最強の広告媒体」だ。
  2. 「洗脳」マーケティング:小売心理学的に、アップテンポで反復的な音楽は購買意欲を高めるとされる。スーパーやモールで繰り返しかかる「中毒性の高いメロディ」は、計算されたマーケティング戦略の一部だ。
  3. 多角的な収益源
    • 物販: AstroのマスコットぬいぐるみやTシャツは、飛ぶように売れるドル箱商品。
    • イベント出演: アーティストにとって、旧正月期間のモール巡業や企業のディナーショーは、年間で最も稼げる書き入れ時。

2025年(蛇年)のトレンドと論争

2025年の市場は新たなテクノロジーと世代交代の波に洗われている。

YouTuberによる「破壊的イノベーション」

近年、「テレビ局の歌は優等生すぎてつまらない」という若者層を取り込んでいるのが、インフルエンサーたち。

  • 3P (ThreeeP): ダンスとラップ、そしてEDMを融合させた『YES蛇』で、香港映画へのオマージュを展開。
  • Steady Gang: 「不景気」「給料が上がらない」といった庶民のリアルな嘆きを、コミカルなパーティーチューンに昇華。

彼らは、伝統的な「金持ちになろう(恭喜発財)」というメッセージに対し、「金はないけど楽しもう」という現代的な価値観を提示している。

AIによる「故人の復活」と倫理問題

2025年市場で最も議論を呼んだのが、2023年末に急逝した歌手・Queenzy Cheng(莊群施)のAIによる復活だ。

彼女の遺志を継ぎ、生成AIで歌声と姿を再現した新曲『Good Luck』がリリースされた。「感動した」というファンがいる一方で、「死者を商業利用している」「不気味だ」という批判も噴出。

マレーシア音楽界における「デジタル遺産」の扱いについて、大きな一石を投じた。

「蛇」をどう愛でるか?

視覚的に扱いづらい「蛇」年。2025年は、クリエイターたちの工夫が光った。

  • 言葉遊び: 「Yes Sir」→「Yes 蛇(She)」、「素晴らしい(Hoseh)」→「蛇(She)」など、発音をかけたダジャレがタイトルに乱立。
  • デザイン: 蛇にコインを持たせたり、丸いフォルムにすることで「毒」のイメージを消し、「富」の象徴へと転換させた。

マレーシア華人の「生存証明」としての音楽

なぜ、マレーシアだけがこれほど熱狂するのか?

その根底には、多民族国家におけるマイノリティ(華人人口約22%)としての「文化的危機感」と「伝統への渇望」があると言われている。

中国では春節は「当たり前」のものですが、マレーシア華人にとっては、騒々しい(熱鬧)音楽を流し、赤い服を着て、存在を主張すること自体が、自らのルーツを確認する「儀式」なのだ。

歴史的ノスタルジーから始まり、巨大なビジネスへと成長し、今はAIやYouTuberが最前線を走るマレーシアの賀歳歌。

それは、伝統を守りながらも柔軟に変化し続ける、マレーシア華人社会のたくましさそのものと言えるだろう。