公開日 2025年10月9日 最終更新日 2025年10月9日
2025年1月、ベトナムの音楽史に新たな名が、そして新たな歴史が刻まれた。その中心にいたのは、一人の青年、Dương Domic。彼がリリースした楽曲「Mất kết nối」は、国際レコード産業連盟(IFPI)がベトナムで初めてローンチした公式音楽チャートで、記念すべき史上初の1位を獲得。しかも、BLACKPINKのRoséとブルーノ・マーズという世界的スターのコラボ曲を抑えての快挙だった。
これは単なるヒットチャートの記録ではない。一度は夢を絶たれ、業界の片隅で「不運な歌手」と呼ばれた青年が、不屈の精神で掴み取った壮大な逆転劇のクライマックスであり、ベトナムのポップミュージック「V-POP」が新たな時代へと突入した瞬間を告げる号砲だったのだ。
本記事では、アンダーグラウンドの少年が国民的スターへと駆け上がるまでの、Dương Domicの揺るぎなき軌跡を、その苦悩、再起、そして創造の物語と共に詳しく紐解いていく。
Dương Domic、本名Trần Đăng Dươngは、2000年8月31日、ハイズオン省の政治家の家系に生まれた。安定した将来が期待される環境とは対照的に、彼が情熱を注いだのは音楽の世界だった。14歳という若さでアンダーグラウンドシーンに足を踏み入れ、自らの手で音楽を創造する喜びと表現する衝動に目覚める。この時期の経験が、彼のアーティストとしての魂の核、つまり自らの言葉で音楽を紡ぐという純粋な情熱を育んだのだ。
彼のキャリアが大きく動き出したのは2019年。ベトナムに支社を置く韓国のエンターテインメント企業、IF Entertainmentの目に留まり、練習生として契約する。ここから、彼の人生を変える2年間に及ぶ過酷なトレーニングが始まった。
K-POPのアイドル育成システムは、歌やダンスはもちろん、ラップ、パフォーマンス、ステージ上での立ち振る舞いまで、アーティストに求められる全てのスキルを徹底的に叩き込む。Dương Domicはこの体系的なトレーニングを通じて、アンダーグラウンド時代に培った創造性に、プロフェッショナルとしての圧倒的な技術力を融合させた。
この結果、作詞作曲できる「インディーアーティストの魂」と、ステージを支配する「K-POPアイドルの実力」を兼ね備えた、まさに「オールラウンダー」と呼ぶにふさわしいアーティストが誕生した。
2021年12月、彼は満を持してデビューシングル「Candy」をリリース。韓国の人気ラップバトル番組『Show Me the Money』で名を馳せたラッパー、Microdotをフィーチャリングに迎えたこの楽曲は、彼が世界基準のV-POPアーティストであることを高らかに宣言するデビューとなった。
輝かしい未来が約束されているかのように見えた彼のキャリアは、あまりにも突然、そして無慈悲に暗転する。デビューからわずか1年余り、彼を支えていたIF Entertainmentが予兆なく倒産したのだ。
「ある朝、いつも通り仕事に行ったら、会社がなくなっていた」。
この一言が、彼が直面した衝撃の大きさを物語っている。強力な後ろ盾を失い、彼はたった一人で音楽業界の荒波に漕ぎ出さなければならなかった。
独立後の道は、想像を絶するほど過酷だった。
深刻な経済的困難に陥り、生活のためにアルバイトを掛け持ちし、時には借金をして日々を繋ぐこともあった。音楽活動を続けようにも、知名度の低さから多くの企業やプロデューサーに協力を断られ、孤立無援の状態に。
「Những Câu Nói Anh Từng Chờ」「Là Em, Chính Em」といった楽曲を自力でリリースするものの、大きな注目を集めることはできず、彼の才能は世に埋もれたままだった。いつしか彼は、業界関係者や一部のファンの間で「不運」な歌手と呼ばれるようになる。
『The Voice Vietnam 2023』など、いくつかの音楽コンテストにも挑戦したが、人々の記憶に残る結果は残せなかった。才能はあるのに、なぜか成功できない。そんなもどかしい時期が、彼の心を蝕んでいく。
しかし、皮肉なことに、このどん底の経験こそが、彼の未来を照らす最も重要な「物語」を創り上げていたのだ。逆境に屈せず、それでも音楽を諦めない一人の青年の姿は、来るべき大舞台で、多くの人々の心を掴むための強力な武器となるのだった。
2024年、彼の運命を根底から覆すチャンスが訪れる。リアリティ番組『Anh trai say hi』への出演だ。数々の人気アーティストが集結するこの番組に、彼は比較的無名な挑戦者として参加。しかし、番組が始まると、誰もが彼の才能に度肝を抜かれることになる。
番組のフォーマットは、彼の能力を最大限に引き出す完璧な舞台だった。K-POP仕込みのハイレベルなダンス、安定したボーカル、カリスマ性のあるラップ、そして自ら作詞作曲する創造性。彼がこれまで培ってきた全てのスキルを、毎週のパフォーマンスで遺憾なく発揮。
彼のパフォーマンスは他の参加者たちにも衝撃を与え、人気アーティストであるHIEUTHUHAIやIsaacといったチームリーダーたちが、彼を自分のチームに引き入れようと激しい「争奪戦」を繰り広げるほどだった。無名の挑戦者は、一躍、番組の誰もが欲しがる「ジョーカー」へと変貌を遂げたのだ。
番組が進行するにつれて、彼の人気は爆発的に上昇。SNSのフォロワーは急増し、検索ランキングは常に上位をキープ。番組が終了する頃には、彼はV-POPシーンで最も需要のあるアーティストの一人へと、劇的な変貌を遂げていた。
『Anh trai say hi』は、彼に単なる知名度を与えただけではない。彼の才能が「本物」であることを、ベトナム全国民に証明する「認証エンジン」として機能したのだ。不運なアンダードッグ(挑戦者)が、実力でスターダムを駆け上がる。その物語は、多くの視聴者に感動と興奮を与えた。
番組終了直後の2024年11月、彼は初のEP『Dữ liệu quý』をリリース。この作品は、彼のアーティストとしてのアイデンティティを明確に示した傑作となった。
EPは、テクノロジー用語を巧みな比喩として用いている。「Tràn bộ nhớ」、「Mất kết nối」、「Pin dự phòng」といった曲名を通じて、現代社会における人間関係の断絶、心の繋がり、そして感情的な脆さといった普遍的なテーマを描き出した。
特にリード曲「Mất kết nối」は、彼のキャリアを象徴する一曲となる。共感を呼ぶ歌詞とキャッチーなメロディーは若者世代の心を掴み、リリース直後からチャートを席巻。そして前述の通り、ベトナム初のIFPI公式チャートで歴史的な1位を獲得するに至ったのだ。
彼の音楽の核となるのは、R&B、ヒップホップ、ダンスポップを融合させた現代的なV-POPサウンド。そして、彼自身が手掛ける歌詞の世界観だ。
恋愛の痛み、孤独、内面の葛藤といった、誰もが経験する感情を、豊かな言葉で紡ぎ出す。そのインスピレーションは、彼自身の経験や、周囲の人々の物語から生まれると言う。このリアルな感情に根差したアプローチが、彼の音楽に深みを与え、多くのリスナーの共感を呼んでいる。
IFPIチャートでの歴史的快挙は、始まりに過ぎなかった。2024年末から2025年初頭にかけて、彼はベトナムの主要な音楽賞を総なめにする。
これらの受賞は、彼が単なる人気者ではなく、批評家からも高く評価される実力派アーティストであることを証明した。かつて「不運」と呼ばれた青年は、今やV-POPシーンを牽引する正真正銘のトップスターとなったのだ。
ソロアーティストとしての活動と並行して次に見据えたのは、仲間たちとの挑戦だった。2024年12月、『Anh trai say hi』で共に戦ったQuang Hùng MasterD、JSOL、HURRYKNGと共に、ボーイズグループ「MOPIUS」を結成。
グループ名は、終わりのない帯を意味する「メビウスの輪」に由来し、音楽における絶え間ない革新と情熱を象徴している。メンバー全員が作詞作曲やプロデュース能力を持つという、まさに「スーパーグループ」。それぞれの個性を持ち寄りながら、V-POPに新たな化学反応を起こすことが期待されている。
デビューシングル「LÀN ƯU TIÊN」をリリースし、順調なスタートを切ったMOPIUS。ソロ活動とグループ活動の両立は、個々の人気を一過性のものに終わらせず、持続可能なムーブメントへと昇華させるための賢明な戦略でもある。
彼の成功を語る上で欠かせないのが、熱狂的なファンダムの存在だ。彼の公式ファンダムは「Dopamine(ドーパミン)」と名付けられた。彼の名前「Domic」と、彼の音楽がファンに幸福感をもたらす「ドーパミン」をかけた、ユニークで愛情のこもった名前だ。彼らはSNSでの応援からイベント企画まで、彼の活動を力強く支えている。
彼の魅力は、そのギャップにもある。ステージ上では、カリスマ性あふれるクールな「CEO」のような姿を見せる一方、インタビューや舞台裏では、親しみやすく、時には少し抜けた一面を覗かせる。この人間味あふれる素顔は、ファンから「Bống khờ」という愛称で親しまれており、彼をより身近な存在に感じさせている。
Dương Domicの物語は、単なるサクセスストーリーではない。それは、才能ある一人の青年が、キャリアを終わらせかねないほどの逆境を乗り越え、自らの手で運命を切り開いた「忍耐と再起の記録」だ。
会社の倒産、経済的困窮、業界からの無視。幾度となく打ちのめされながらも、彼は音楽への情熱だけは決して手放さなかった。その揺るぎない信念が、K-POPで磨いた世界レベルのスキルと結びついた時、『Anh trai say hi』という最高の舞台で化学反応を起こし、V-POPの歴史を塗り替えるほどの巨大なエネルギーを生み出したのだ。
彼は、国際基準の実力を持ちながら、ベトナムの若者の心に響くローカルな感性を併せ持つ、新世代のV-POPアーティストの象徴だ。
Dương Domicの歩みは、まだ始まったばかり。ソロとして、そしてMOPIUSの一員として、彼がこれからどんな音楽を世界に届けてくれるのか。彼の奏でる不滅の音色は、これからも多くの人々に希望とインスピレーションを与え続けることだろう。